サクタのデブリ

社会不適合者の独り言

新入社員の話

驚いた。

「社内共済」というものがあることを知った。世間知らずと笑うがいい。
調べてみると、私が死んだ場合親にも受け取る権利があるらしい。
また、自殺の場合は支払われないという記述も見当たらない。
10M。でかい。親に20~30M返さなければいけない私にとっては本当にでかい。

今までで不思議と生命保険については考えていなかった。
しかし、なぜ考えていなかったのだろう。
やはり「本気で」、「親に金を返して死ぬ」という決心をしたのは最近のことだからか。

共済を知ったことで生命保険にも頭が回った。
これも利用しよう。
生命保険は基本的に自殺でも支払われるが、契約開始から1~3年の間が必要らしい。
保険金目当ての自殺を防ぐためだそうだ。
また、その他の理由で保険金目当てと判断されてもいけない。
当社には社員共同生命保険があった。
これも会社の出資で社員のためにある仕組みだ。
記述を見ると、やはり1年以上経過後の自殺なら親に支払われるようだ。

身の丈に合わない保険金をかけていると保険金目当てと思われるかもしれない。
そういうわけで、5Mプランから始めて1年ごとに増額する計画を立てた。
7M、9M、11Mという具合だろうか。
それでも最終的には身の丈に合っておらず、少し怪しいとは思う。
カモフラージュとして生命以外の保険も徐々に増額する必要もあるだろう。

共済、生命保険共に、保険金目当ての自殺だと思われるとまずい。
根本的には死にたいから死ぬのだが、保険金もついでに欲しいのは事実だ。
できれば、事故に見せかけたい。
考えてみたが、なかなか難しい。
慣れない酒を飲んで酔って落ちるとか、判断能力を失って自殺するとかが現実的か。


ところで入社早々、既にサービス残業だらけである。
研修だからって?頼んでもいない研修が多いのだ、明らかに業務命令である。
あまりに自明な愚痴なためこれ以上は言及しない。
共済と共同保険をむしりとることで復讐できる。
心が痛まないどころではない、これで心も晴れるというものだ。
自殺志願者を見抜けずに入社させた無能を嘆くといい。
会社のダメージは微々たるものかもしれないが、確実に収支をマイナスにしてみせる。


以上の通り私の自殺は5~10年計画になった。
給料だけで20年かかる計算だったのでかなり楽になった。
死ぬためだけ、その目的のために毎日を流していこう。
事故に見せかける方法の模索も並行して。

就活と修論のはなし

本当は就活関係の話を去年の5月には書こうと思ったのだが、めんどくさくて1年経ってしまった。

以下の記事は、修士修了時点での考え方だと思ってもらえるとよい。


就活は、私は結構な数を撃った。数撃ちゃ当たるというより、
「数撃っておけば全部当たらなかった時『じゃあ仕方ないね』と言って自殺しても許されるような雰囲気を作ることができる」という理由だ。
が、4月の中旬に早くも内々定が一社出てしまった。
もう何もかもめんどくさくなった。3月に大量に説明会に参加したのはなんだったんだ。
この後はある程度まで選考が進んだ企業を
「次の専攻日程予約めんどくさくて後回しにしてたら全部埋まっちゃった」→「まあいっか」→「補充されたのか、でももうやる気なくなっちゃったから無視」
というようなこともしたし、
選考辞退の電話もかけまくった。
GWを挟むともはややる気は完全に無く、面接前に話すことを何も考えず臨んだりした(最終的にはこの面接の企業に入社を決定した)。

これで心置きなくはっきり言える。
やはり「面接で人を見ています、資格や学歴ではなく人格が重要」なんてことなかった。
面接なんて1時間そこらの時間で人間が計れるわけがない。
計れるやつもいるかもしれないが、少なくとも私に内定を出した企業は面接で何も見れちゃいない。
私は10社ほど面接に臨んだが、面接で落とされたのは2社だけである。それも「研究内容を弊社でどう活かす?」の部分で「いや何も無いってばw」というようなスキルに関するやり取りをした2社のみだ。
企業は面接で私という完全社会不適合者をあぶり出すことが全くできなかったのだ。
あほくさくてたまらない。

 

修論は、まあ、殆ど何もしなかったがそれっぽいものを書いた。
結局大学には2~3週間に一回くらいしか行かなかったし、家で遠隔作業も殆どしなかった。
駄目なやつも修士ならば修了できてしまうのが現実だ。
修了するために頑張ることはできなかった。

頑張らず、自分が余裕でできる範囲でやって、それで修了できないようなら喜んで「仕方ないね」と言いながら自殺しようと思っていた。
そのぐらいの気持ちでやっていても修了できてしまう。
しかし、修士にもなるとやはり周りを見てみれば優秀な人物が沢山いたということは記しておく。

 

二度も書いてしまったが、私は「じゃあ絶望して自殺しても仕方ないね」と一般的に言われそうな口実を欲している。
今の私は自殺するには一般的に恵まれすぎており、こんな私が自殺しては親も悲しむだろう。
院を修了できなかったり、就活浪人になったり、そういうのを期待していた。
また、週に1回10分程度しか外に出ない、睡眠時間帯は6:00~18:00というような生活を続けていたので身体がガタガタで、
腰からふくらはぎにかけて神経っぽい痛みが走ったりする。
これがもっと深刻化して下半身不随にでもなればやはり自殺しても仕方ないんじゃないかと思っている。

今後はそういう口実を求めつつ、もう一つの道を目指している。
それは「親に教育費諸々を返済する」ことである。
金は返すから自殺を許してほしいということだ。
もちろんその他の手間暇がかかっていることは百も承知だが、こちらも死にたいのだ。このぐらいで譲歩してほしい。
殆ど出費をしなければ雑な計算で10年程度で返済できそうだが、実際には20年程度だろうか?
20年というと少し長すぎる。15年ぐらいでなんとかしたいところである。
幸い金のかかる趣味は持ち合わせていないので節約していけばなんとかなるだろう。

 

結婚して子供を育ててという追加イベントとは無縁に、
イベントの終わった作業ゲーを続けていく。
ただ、私は君たちより早くエンディングに辿り着いてやる。

浪人のこと

就活の準備はまだしていない。さすがにそろそろまずい。

さて、この記事が書きたくてブログを作ったようなフシがある。
浪人した私だが、結論から言えばこんなもんは無駄だった。

浪人した理由としては、大した学力も持たない私に父親が「現役では◯◯レベルでは許さない(学費を出さない)」と宣言したからである。
この宣言により「えっそれはとりあえず今年は諦めて来年空白の1年を過ごした後◯◯レベルに入れということですか」と判断した。
◯◯レベルより上は合格できる見込みはあまりなく、受かれば儲けものというぐらいのモチベーションだったのだ。
受験期直前のこの宣言でかなりやる気と危機感を失ってしまい、この年の受験は全て落ちた。
父親に責任をなすりつけるわけでもないが、見込み違いだったのだ。私は1年間与えられたからといって学力が上がるような人間ではなかったのだ。
私自身も内心「1年あれば学力も上がるかもな」と思っていた。 「自分はやればできる」と思っていた、心の隅で。見込み違いなのだ。

まず予備校に通ったが、10月までは趣味に時間を使った。夜の睡眠時間は5時間ぐらいで、予備校で寝てしまっていた。
そして10月以降は「受験も近いしやめなきゃな」と思って実際趣味は控えたが、代わりにその時間全て寝た。
その結果がこれだ。

現役時センター英語 126
浪人時センター英語 106

下がった。
他の教科はなんか知らんが上がったが、一番勉強していたつもりの英語が下がった。
しかもこれ偶然とかではなく、受験直前のセンター形式模試では何度受けても50~60点を維持するレベルでこじらせており、本番はむしろ良い方なのだ。
それなりに努力してるつもりだったが、結果が全て物語っている。努力してなどいなかったのだ。
私はこれをきっかけとして人生を完全に諦めた。自分が努力できないのを実感した。「やればできる」私はいなかったのだと。

結局受験の結果としては現役時より危機感とやる気があった分マシになり、◯◯レベルよりギリッギリで微妙に高い偏差値の大学に合格した。(浪人時は◯◯レベルでも構わないと言われていたが)
危機感とやる気があれば現役時でも受かっていたような気がするが落ちている事実があるのでまあ少なくとも運がよかったと言えるんじゃないだろうか。

よく、浪人をして「その1年はつらかったが良い経験になった」とかいうやつがいる。
あれは浪人したことを正当化し、間違いじゃなかったと自分に言い聞かせるための言葉だ。
良い経験ってなんだ。何もないぞ。浪人したこと自体には何もない。もしかしたら浪人中に何か新しいことに手を出し、良い経験をしたやつもいるのかもしれない。だが浪人でなくてもやれたことだろう。
浪人は何も良いことはない。現役で受かった方が間違いなく良い。
浪人だからどうこうという程のデメリットは特に無いが、受験生という立場が更に1年延びるのは本当にキツい。実際の生活は何もキツくないのに精神だけがキツい。

悪いことは言わない。
良い経験なんてそこにはないから、避けられる浪人は避けろ。

サクタは卑屈

ブログの更新をサボっている内に就活の時期が近づいている。まだ何もしていない。

 

今回は今の私の人格を形成するに至るまでの昔話を記していこうと思う。
私の根幹の問題には大して関係は無く、ただ卑屈な性格はどこで根付いたのかという昔話になる。(根幹の問題はやる気が無く、努力ができないこと)

小学校ではバカ男子の一角で、それなりに問題を起こした。低学年の頃は仲の良い女子にラブレターをもらったりなどしていた。なんて快調な開幕か。このときはまるで人生成功しそうに見える。
中学は本当にくだらないつまらない話しかないので割愛する。ただ、ここで一気に所謂「カースト最底辺」になった。主な原因は背が低く、スポーツも下手だったことだと思う。これを原因に受けた扱いから人格が捻曲がって更に悪い扱いを受ける負のスパイラルである。
(個人的に「顔が悪い」は身長よりはマシだと思う、もちろん私は顔も悪い)
高校は在学中あまりに何も無かったという意味で、高校自体に関しては話すことがない。最高だったのは「お前球技大会参加しないよな?」と言われた時だろうか。無論参加しないので「参加しろ」と言われないどころか、そういうモブ以下の存在だと認識されていることは本当に楽だった


高校時代には既にネットを介した友人の方が親しく、何度も会って普通に遊んでいた。関東圏であるので高校生の小遣いでも十分に交流ができたのだ。学校では中学以降すっかり根暗をやっていたがネットではわりかし明るくやっていたのだ。
高2ぐらいまでは仲の良いグループを作ってよく話していた、が、グループが大きくなるにつれてグループによくある問題が起きてきた。今思えば非常によくある展開。グループ内で仲の良い集まりが他で集まってグループメンバーの陰口を言っていたりしたようだ。
その時の私は信じられないぐらい楽観的で、グループの一員としてやっていけていて、周りもこのグループを大切にしているものとばかり思っていた。グループ内で嫌いな人物がいるとか考えたこともなかった。仲がいいからグループになっているんだと思っていた。
気づいたのは本当に些細なことで、とあるイベントにグループで参加しようとしたとき、これに関する私への連絡が少し遅れた。少しと言ってもほんの数分レベルなのだが、私のいない場で連絡があってそれに関してメンバーが盛り上がっているのを見て、一気に視界が開けたのだ。
別に私が特別嫌われていてハブられたわけではないこともわかった。ただ、別にこいつらこのグループメンバー全員を大切に思っちゃいないのだとようやく気づいたのだ。
私のことを蔑ろにしたわけじゃない、常にこの熱量なのだ。
外面仲良しこよしでも裏があるということが恐ろしくなった私は二度とグループに所属しないことを自分の中で誓った。
この機会にグループを抜けたが、この時特に親しかった中3から交流のある友人から「どうしたのか」と直接聞かれ、この友人とは交流を継続することとなった。
また、その当時一時的にいなかった、同じく中3から交流のあった他の友人からも後に「グループからいなくなってたから驚いた、どうした」と聞かれた。
今思えばこれはすごいことだと思う。こんな私にも気にかけてくれる友人がいるのだ。この時以降友人関係というのも社交辞令等である可能性を常に加味して行動しているが、この二人は手放しで友人であると思っている。
おっと。こんないい話をしたいんじゃないんだ。
重ねて断っておきたいのだが、私はこのことについて「酷いことをされた(>_<)」とか言う気は全く無い。グループでは普通のことだ。たまたま私が気づくきっかけはこれだったというだけである。
世の中本当に仲の良いグループなど無い。誰もかも知人に序列をつけているのだ。
そういうことが分かって、そのことを常に考えるようになって、私の今の卑屈な人格ができたという話である。


余談だが高校では文科系の部活に所属しており、後輩に好きな女子がいた。卒業時に告白をしてフラれた挙げ句、SNSで交流しようとしたのも気持ち悪いと思われたらしく、ストーカーとまで言われ縁を切られた。何をしたんだという感じに聞こえるが、ネット慣れした人と近年ネットに触れるようになった人とでは常識が違うというだけの話で、私はこの点についてはどちらが悪かったとも思っていない。単に私が人と付き合うのが下手で挙動が気持ち悪かったのが一番悪かったのだと思う。


さて私はこの後浪人する。
これについては長くはないのだが、とある理由から別記事で書こうと思う。

サクタの今

今回は去年度に入ってからの話をしたいと思う。

元々あまり将来のことは考えずに生きてきた。
小学校の頃は漫画家になりたいだの、研究者になりたいだの言っていた気がする。
中学で中二病を患い、具体的な見込みの無いことは口に出さないようにして以来、なんの見込みもないまま今に至る。
大学の間には決めなければな、と思っていたのだが、大学の間に「人生どうでもいい感」が強まってしまい、一切何も考えずに院まで来た。
強いて言えば「ダラダラ博士まで行って、就活の前に自殺したいな」ぐらいに考えていた。
が、院に入る直前に心境の変化があり、それがこのブログを用意したきっかけだ。

研究室は最初の頃こそ順調に見えた。
研究室のメンバーは一人の博士課程がクドクドとした老害であったが、それ以外は概ね話の通じるやつが多かった。
多少「用事がなければ行かない」傾向があったものの、基礎の勉強のための課題は同期で真っ先に終わり、その質も最も高かったと思う。
(研究室には基本的に毎日顔を出すのが普通)
同期がザコすぎたせいもあって同期でトップの成績を持っていたお陰で大学の金で海外にも行った。
卒研の内容は上から落っこちてきた、巨大な実験の末端要素のものだった。
この時の私は「考えなくて良いし楽だ」ぐらいに考えていたし、今もそう思う。
しかし、そこですっかり研究に対する興味を失ってしまった。
実際に携わりたいわけではなかったのだ。全く面白いと思わない。
ここで卒研が自ら考え、主導する類のものであったら何か違っていたかもしれないが、そうであってほしかったわけではない。
とにかく、結果として研究に興味が無くなった。
卒研は実質上早くに終わり、同期が3月まで続けている中、私は1月にはほぼ終わっていた。
その後は月金以外は研究室には行かず、気が向いたときに少しずつ卒論を書いて生活していた。
勘違いしないでほしいのだが、研究室に行かない代わりに何かをしていたわけではない。
毎日「こんなんで本当に大丈夫なのか・・・」と思いながら時間を無為にしていた。
自殺する予定の人間に大丈夫もクソもないのだが。

余談だがこの間、やる気の無さに本当に悩んだ。
月曜日に研究室の進捗報告会があるのだが、起きた瞬間めんどくさくなってこれを放棄、二度寝。(さすがに自分が報告する立場の場合は起きるが)
仮病を使ったこともあるが、後の方は頻度が上がりすぎてそんなものは無くなった。
金曜日も夕方に別の進捗報告会があるが、これもギリギリに着くことが多かった。せっかく研究室に行くのだから少し早めに着いて「やる気あります」アピールをした方が得だと思いつつも早く起きられなかった。
真っ当な人間なら学校の授業などは遅刻・欠席したこともあるだろうが、私は逆である。授業は遅刻も殆どしたことがない真面目"風"の人間だったが、ここにきてもっと重要なところをサボるようになってきた。
更に、院試の申し込みを忘れていて締切前日に教授に言われて気づいたり、院の入学申し込みも封筒を開けるのがめんどくさく、たまたま気が向いて開けたのは締切前日であった。このへんはもう人生に関わる。
当然、他にも何か締切があればそれをギリギリで破っていた。気分が乗ったときに済ませようと思っていると忘れるのである。5分で済む申し込み等をだ。
挙げ句の果てにはバイトを忘れた。忘れるにしても、塾講が、2月に、バイトを忘れるというのは・・・親御さんには愛想を尽かされ、生徒もどこか他人行儀であった。4年間見てきた生徒だったのでクズなりにショックを受けた。このバイトを続けてきたのもこの生徒を最後まで見ようと思ったからであり、こんなミスで台無しにしてしまう自分に驚いた。
結局やる気がないのだと思う。人生既に失敗したと思っており、将来に希望が無いから人生に関わることまで平気で忘れるのだ。
ちなみに今のところ友人と遊ぶ約束等は完全に忘れたりはしていない。(起きる時間を1時間間違えたりはしている)


何はともあれ、この酷くぬるい卒研生活の中で私はこう思った。
興味の無いことを続けて金も得られないこの生活を博士課程まで続けることはできない、自殺しない場合は修士をとったら就職しよう」
こうして晴れて就職するつもりであることだけは決まったのである
めでたしめでたし。




―――――4月。既に研究に興味がない。
しかも卒研の内容で一段落しているので、(関連した研究こそいずれ落ちてくるだろうが)今はやることがない。
木金に授業をとっているので卒研時代よりは研究室にも顔を出すが、やはり火曜日は寝て過ごす。
研究室に顔を出して「いますよ」「やる気ありますよ」というポーズをとっていてわかってきたのだが、こいつら研究室に居るには居るが建設的なことは殆どせずにだらだらとお喋りしているだけではないか。
こんなやつらに合わせて「空気的に早く帰れない」など馬鹿げている。
結局早めに帰る形に落ち着いた。
多少ゼミの予習や授業の課題などを研究室で進めて「いますよ」ポーズはとっていたが。

なお前述の博士課程の老害は卒業していなくなったのだが、新たに博士課程に進む予定の修士2年がクドクドとした老害と化した。
ジャイアンを消したらスネ夫ジャイアン役になったのと同じであると言えば分かるだろうか。
こいつが本当にクドクドしている。必要の無い部分に妙に拘り、それを基に見合わない成果しか得られない作業を押し付けてくる。
分かるよ。博士課程に進むんだ、「自分が学生を教育した成果」や「研究室を主導できる自分」を教授に見せたいんだろう。
分かるが、付き合わされる方は堪ったもんじゃない。
前年度にいた別の老害(博士課程)は必用以上にクドクドと今結論の出せないことについて同じ事を繰り返すものの、その指示は的を射ていた。
今年度の老害(M2)は彼ほどの実力が無いのに彼の雰囲気を真似てきているから本当に厄介なのだ。
成果の見合わない作業の指示を出すこいつは、私の中で「敵」となった。
今まで輪に入りこそしなかったがついに明確な敵までできてしまった。これ以降の研究室生活は耐久でしかない。
他にもブラック研究室である話は5月いっぱいまで書けるのだが、完全にあちらが理不尽なことを書いてもただの愚痴にしかならないので書かないこととする。

8月下旬、ようやく修論の方向性が決まった。
それまでの間は決まってないのをいいことに何もせず時間を無為にしていた。
なお9月上旬の現在、その修論の研究のための勉強はほとんど進んでいない。
理由は単純、やる気が出ないのでやっていないのだ。
(自分の研究とは殆ど関係無い作業をやらされているというのも一応理由としてはあるが)

博士課程はともかく修士課程を卒業できないやつの話はあまり聞かないのでタカを括っている。
だいたい私はいざとなったら責任など投げ出して自殺してしまえと考えているので色々怖くないのだ。
今後どうなるのだろうか。

サクタという人間

気が向いた時に書いているので更新の間が大きく空く。
そもそも継続的に更新するつもりはなく、数ヶ月程経って何か状況が変わっていたら書く程度のつもりでいる。

さて、今回は私という人間は今どんな立場であるのかを明確にしておこうと思う。


現在は23歳で、関東にある理工学系の大学院に通っている。サクタとしてはこれが最も意味のある情報だろう。
大学に進学した理由は二つで、「勉強がしたいから」と「モラトリアムを延長したいから」である。就職とかキャンパスライフとかいったマトモめいた理由は無い。
一方、大学院に進学した理由はというと、「モラトリアムを延長したいから」である。
そう。この間に何か心境の変化がある。
いや、正確に言えば、大学受験を終えた時点で心境の変化があったのだ。
これについては後々記そうかと思っている(あまり大したことではないのだが)。

一声で言えば、人生を諦めている。
より良い人生を送ろうなんて気力は起きない。
もっと言えばさっさと死にたい。
これは「鬱だ死のう」とかいう感傷的なものじゃなく、ただただ「この人生は失敗したからここらで投了しよう」ぐらいのモチベーションである。
今後生きてても幸せがつらさを超えることはないだろう。
病んでもいない、打算的な自殺願望なのだ。

だが、自殺は選択肢に入らない。何故か。
家庭環境がフツーというか、並以上なのである。
両親は私にある程度の期待をしており、大学院まで何不自由しないほどの投資をしてくれているし、多分私が死ねば悲しむんじゃないかと思う。
この恩が返せていないのだ。ぶっちゃけ返せる見込みも無いのだが、返せていないのは確かで、ここで自殺するような権利が私にはない。
だからある日突然暴走車でも突っ込んできて事故でやむなく死にたい。
そんな都合の良いことも起きずにだらだらと生きている。

人生諦めてる理由は大したことではない。
社会に馴染めないのだ。
まだ社会にも出ていないくせに、とかは全くその通りである。
しかしここまで擬似的に社会を体験してきてこりゃダメだと思った
何かにつけてマイノリティ側なのだ。
特に、幸せを感じる物事と、逆に不快な物事。これが人と違うことが多々ある。
これはマジョリティ側の人間にはとても理解できないであろう不利なのだ。
皆が嬉々として行うことに付き合うのが苦痛で、付き合わなければ罵倒を受ける。
一番わかりやすいのは「飲み会」だろう。
たぶん社会でなんとか生きてる人は、ここで苦痛を受けつつも我慢し、溶け込むふりをするんだろう。そういう人はたくさんいるんだろう。
これを私は不利だと思う。

私はここまでの人生は少なくとも、自分を偽り、隠れて苦痛を感じながらも場に馴染む必要など無いと考え、飲み会等は参加しない方針をとっている。
大学も、研究室も、バイトも、一時的な付き合いでしかないのだから、という考え方で。
しかし今研究室で非常に立場が悪くなっている。
奴らが楽しんでる中で一人苦痛を受けながらも飲み会に参加しなければ立場が悪くなるのだ。
私は何も彼らに対して害を与えたわけではない。ただ輪に入らなかっただけだ。にも関わらず明らかに彼らから害を与えられている。
「世の中そういうもんだ」とかいう分かったふりをした説教は聞きたくない。
世の中がそういうもんなら世の中異常だし、その異常の割りを食うのは私だし、割りを食うのはたまたまマイノリティに育ってしまったからで、だからこの人生は失敗したと言えるし、さっさと死にたいのだ。
生きようと思えば多少の我慢と引き換えに生きられるが、別にそこまでして生きたい理由なんてどこにもないのである。


生きたい理由が無い、何に対してもやる気がないことについては特に原因が分かっていない。
肝心のところが謎なのだ。
今の人格を形成するに至るまでの昔話などを書こうなどと思っていたがよくよく考えてみればここが私の人間としての最大の欠陥にも関わらずここの原因がわからなければ書く意味がない。このブログは早速暗礁に乗り上げた。
とりあえず次の記事で近況について語るついでに少し詳しく語ろうと思う。


長くなってしまったがこんなところだ。
それほど特別不幸な立場でもないのに未来になんの希望も持ってない、そういう人間である。

このブログ

何をおいても始めに断わっておく必要がある。
このブログは、楽しい娯楽の記録も、有益な情報の発信も行わないし、ましてやインターネットを通じたコミュニケーションなど毛頭行うつもりは無い。
言わば私サクタの独り言である日記帳を、インターネットに載せているだけである。
他人にとって読む価値のあるものではないだろう。

断わりを入れたところで、このブログを開設した動機と目的について記しておこう。
まず、私サクタはインターネット上のSNS等で別のHNを用いて活動している。サクタは言ってしまえば偽名である。話の都合上、この別のHNは「表サクタ」とでもしておこう。
表サクタでの活動は決して有名なものではないが、5年以上同じ名前で活動しているために、インターネット特有の匿名性が半ば薄れている。
表サクタで何か信用を失うような行動をとれば私はインターネット上での居場所を失うに等しい。現実(リアル)での本名を明かしこそしていないが、そこには確かに私の人格があり、生活がある。
そもそも本名を明かしていないとか言ったが、一部の者とは直接会っているし本名も明かしている。
そういうわけで、簡単に言えば、表サクタでは「口に出せないこと」が増えてきた。
もちろん口に出せないなんて言っても、私は犯罪者というわけではない。
例えば学校で、職場で、自分の性癖を大声で叫ぶことは現実的にはできないだろう。その類である。
その類の話題を記すために、サクタという名前と、このブログを作った。
表サクタを知る者が仮にこのブログを見ても、表サクタと結びつくことはないだろう。そういう話題選びをしていくつもりである。
ただ、表サクタ・・・というか私と親しい友人はもしかしたら結びつくかもしれない。
また、文体や口癖も別に表サクタと変わらないので、分かる人はいるのかもしれない。
まあそもそもこのブログが偶然私の知人の目に触れるほど有名な記事を書くはずもないのだが。
「何故そんなチラシの裏みたいな内容をネットで公開するのか?」という疑問は生じて当然だろう。
正直なところ、誰かの目に触れさせたいのだ。ネットデブリの運命だろうが、もしかしたら誰かが読んで、何かを思ってくれるかもしれない。
世の中成功した人間の説く耳触りの良い綺麗事ばかりで溢れているのがやるせない。社会不適合者の本音を聞いてほしいのだ。私は勇気が無いから表じゃ言えないが、こうして匿名で・・・

あとは、そうだな。
私が自殺する前には、表サクタの方でこのブログを公開して逝こうと思っている。
親しい友人や家族に、私が何を思って生きてきたのか最期に伝えておきたいという欲求はある。

最初の記事からこの調子である。嫌になるね?もはや「イイ話」を求める読者などは残らないであろう。
さて、のびのびと次の記事を書くこととしよう。